予告編はコチラ。
遠藤周作原作の名作、沈黙を原作にした映画です。
大学生の頃に原作を読んで以降、長らく触れることのなかったお話ですが、Netflixのおすすめの中にあったのがきっかけで見ることにしました。
舞台は江戸初期、幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。
日本で捕えられ棄教 (信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは 日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本に辿り着いた二人は弾圧を逃れる“隠れキリシタン”と出会う。必死で二人を匿うキリシタン達だが、やがて役人に捕縛され二人をかばうため苛烈な拷問の末に命を落とす。
やがてロドリゴもキチジローの裏切りにより囚われの身に。ロドリゴに棄教を迫る長崎奉行・井上筑後守は、すでに棄教し沢野忠庵という日本人となっていたフェレイラを引き合わせる。
二人の前には棄教を誓っているにも拘わらず穴吊りという拷問に苦しむキリシタン達。
フェレイラはロドリゴに言う。「お前が棄教しない限り、彼らを救えない」
守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。追い詰められたロドリゴの決断とは……。
……お察しの通り、激重・激暗・激胸糞の三重奏となっております。
崇高な信念と信仰のもと、自らの宗教とその教えを絶対の真理として広めようとするロドリゴは、禁教令により厳しくキリスト教が禁じられている日本に叩きのめされます。
彼を叩きのめしたのは、彼への肉体的拷問ではありません。
彼を守るため、言葉を絶する拷問に苦しむ人々の姿。
彼が棄教すると誓わない限り苦しめ続けられる人々の姿。
これまでの生涯を捧げ信じ尽くしてた神という存在、ロドリゴは神の救いを信じ、ひたすらに祈り続けます。
しかし神は沈黙を続ける……。
この苦悩にのち打ちまわり、やがて神への疑いを抱くようになり、そんな自分に苦悩するロドリゴの姿……筆舌に尽くしがたく残酷。
精神的に、きます。ちなみに山田はこの映画のそういうところが好きですw
僕は宗教に関してはあくまでフラットな立場なので詳しく言及することは難しいのですが……キチジローという登場人物が示唆している人間の姿には考えさせられるものがあります。
キチジローは自らの命のために踏み絵を踏み、十字架に唾を吐きかけます。
ロドリゴはそんな彼を「悪にも値しない」と評しますが、まさにそういった弱き人こそ宗教の範疇にするべき存在ではないでしょうか。
教えに殉じ死んでいく強き者と殉教者に徹しきれない弱き人、神が救うべきはいずれなのでしょうか。
強き者しか救わないのであれば、弱き者は誰にすがればいいのでしょうか。
さてさて、この映画を見て山田が考えたのは、タイミング、についてです。
今現在、日本ではキリスト教に対する迫害なんてあろうはずもありません。
しかし、江戸時代初期は違いました。
もしロドリゴが現代に生まれていたら、劇中のような苦しみもなく布教活動ができたことでしょう。
江戸時代初期という時代はキリスト教の布教に適していなかった、ということもできるのではないでしょうか。
僕達が利用者さんやご家族さんと接する時、「今、こうしておいた方がいいのになぁ」ということが度々あります。しかし、そういう提案は大抵、却下されます。
それは、僕達の(少し先を予想した)提案が、利用者さんやご家族さんにとってはタイミングではなかった、ということなのでしょう。
僕達は利用者さん達の暮らし方、生き方を理解し、それぞれのペースで望むように暮らしていけるよう、それぞれのタイミングを尊重していくべきなんだと思います。
はてさて、ロドリゴがその後どのように生き、そしてどう死んでいったのかは、あらゆる惨たらしい場面を乗り越えたその先でご確認ください。
ケアマネ的視点
・信念に殉ずる姿は美しい。
・でも、弱くても生き抜く姿だって尊い。
・やっぱり、沼には何も育たない。